【PR】

  

Posted by TI-DA at

2012年07月03日

引っ越します


今年2月から5ヶ月でしたが、再び、元のブログに戻ります。操作性等の迅速さに少々時間がかかってしまうので色々方法考えましたが、結論は、「元に戻る」に行き着きました。


精力的に動いた時期の記録ですから、この期間の経験は記録として残しておきます。

それでは、こちらでお会いしましょう。→ http://blog.goyah.net/paikaji/  


Posted by Blue eye's at 17:35Comments(0)徒然な話し

2012年06月29日

パッションフルーツ



トケイソウと呼ばれるパッションフルーツ。花を見るとな〜るほど納得。

時計みたいでしょ?。。
  


Posted by Blue eye's at 15:47Comments(0)

2012年06月26日

ミャンマー産翡翠。



日本で糸魚川翡翠の存在が忘れ去られていた期間、そう、昭和初期まで縄文時代の遺跡から出土する翡翠は全てミャンマーから何らかの交易で日本に渡ってきたと考えられていたようです。当然、正倉院に保管されている「翡翠」の工芸品も例外ではないようだ。当然、大陸から渡ってきたものもあるだろうけど・・・

さて、翡翠の産地は世界中にどのくらいあるか・・・糸魚川のフォッサマグナミュージアムに分かりやすい地図があった。












ヨーロッパアルプスなんかでも産出している。他の岩石に比べると限られた場所でしか産出しない珍しい鉱物であることが分かります。

糸魚川で翡翠の原石は海岸で拾う事ができます。ミャンマー翡翠は山岳地帯から採掘されるのでなかなか分かりにくいと聞いていましたが昨日、その原石を見ることが出来ました。





































糸魚川の翡翠と違って、表面を研磨すると美しい翡翠カラーが見えてくるので原石探しは長年の経験が必要だろうな・・・





































翡翠は見れば見るほど惹き付けられる不思議な魅力があるんです。



  


Posted by Blue eye's at 09:18Comments(0)私の仕事の話し

2012年06月24日

名草弁財天と名草巨石群。



先日、仕事でお邪魔した栃木県足利市。歴史のある街で重みのある場所でした。

足利市の歴史は(ここから拝借)平安時代末期には足利義兼が源頼朝の縁戚として鎌倉幕府創設に尽力し、有力御家人の本貫地として発展し、鎌倉時代足利尊氏は後醍醐天皇の討幕運動に参加し、室町時代には足利将軍家となった。 足利義康の時代から絹の産地として有り、近世近代において織物業が発達し、その自由にして闊達な足利人の気風を生んだ。(ここまで)

とあって、日本史内では中世から昭和まで日本の重要な輸出品だった「養蚕」の拠点の1つでもあったのです。「西の西陣、東の桐生」と言われるほど足利市近辺は養蚕が盛んな場所。

そんな足利市から移動当日、どうしても気になっていた名草巨石群という場所があったので寄ってみたんだけれど、正解。とても素晴らしい場所でした。どうやら目的地自体の巨石群が名草弁財天の奥の院で御神体そのものだった・・・知らずに先に行ってしまった。。。

では、名草巨石群「名草弁財天 奥の院」の霊験新たかな空気感をどんぞ。

この巨石群は地質学的にも貴重な場所と言う事で、国の天然記念物に指定されている「風化花崗岩(かこうがん)群の一帯」です。指定は昭和15年というから歴史ありますね。















静かな空気が流れていました。朝もやが巨石群を覆うように・・・

















この巨石の上にある祠が弁財天の御神体が祭られている。本当に小さいので見落とす程です・・・。祠を鎮座させている巨石は御船石(みふねいし)と呼ばれています。





































さて、そものこの弁財天さんはいかにして開山されたか・・・なんですが、、出た!弘法大師(空海上人)。もともと水源農耕の守り神として山自体が信仰の対象になっていたそうですが、太師さんここに来た折、白い大蛇に案内されたのが始まりと伝えられています。














先ほどの奥の院から車で下山して、現在は名草厳島神社(弁財天)と改名されていますが、鳥居をくぐり坂道の参道を登る事15分ほど、到着したのがこの場所。巨石の上に弁財天が建立されています。この巨石の袂にも先ほどの奥の院からの清流が流れていています。





































特別に社殿の中に入れてもらいました。玉串が奉納されていて、事あるごとに地元の方が御参りに来ているようです。そして、大師を道案内した白い大蛇の絵馬が奉納されています。





































一通り参拝させていただいた後、「胎内くぐり」の巨石があったので、くぐらせて頂きました。ここは参拝後にとの託(ことずけ)が書いてあるのでそのようにしましょう。





































まさに母なる胎内に戻ってゆく「甦り」の儀式なのです。入口から少し進むと中腰にならないと進む事が出来なくなります。少しずつ、ありがたやありがたやと思いながら進んでいるとなにやら「気配」がするのです。





































何やら気配のする入口の方を撮ると・・・なんか靄のような、青い煙が肉眼でも見えた。ゴミかな?と、さして気にせず目をこすりながら進みます。





































まだ気配がするんです。何かが光の中から立ち上がってくるのが見えるんです・・・なんだろ?と思いながらレンズの汚れかと思い何度も拭いても肉眼でも画面でも見えるように・・・





































ありゃあ、こりゃあ、白蛇様だ。「ありがたやありがたや」と胎内で手を合わさせて貰いました。大師もこの白蛇様に導かれたのかなぁ・・・と勝手に思いながらくぐり抜けをさせて貰ったのでした。





































名草弁財天と名草巨石群はとても素晴らしい空間でした。リフレッシュも出来るしハイキングコースにもなっています。関東近隣の方々や機会あって足利に行った折には是非、訪れてみて下さい。。でも車は必要かも。。。



まんず、よかったよかった。



  


Posted by Blue eye's at 12:46Comments(0)行く先々の話し

2012年06月23日

佐渡金山にて。



有難い事に日本各地を見て回れる幸せ。この上ない喜びとなり、自分自身の知識の糧となる・・・私は幸せだ。。。

佐渡金山に行ってきた。室町時代より何らかの鉱物が採れる事が分かっていたようだが、1601年に本格的な金鉱石の採掘が始まった。戦乱の世に終止符が打たれ、時代は天下泰平、徳川幕府に入った翌年になる。天領になり厚く徳川に保護され財政を支えていた。日本各地に金山は存在していたがここ、佐渡の産出量は圧倒的なものだった。意外にも閉山は1989年の平成元年。その間、388年間に及び採掘は続き、金78t、銀2330tが産出鋳造されていたのだ。色々文献を調べたら、83tとも言われていますが、正確な産出量は幕府に内緒にしていた「埋蔵金」として把握できないというのが定説です。

黄金の国、日本。近年話題なのが、鹿児島の菱刈金山です。岩石1トンあたりの金の含有量が46g/tで世界1です。普通の金山が約5g/t~10g/tですから、その凄さは分かりますな。

さて、金山といえば佐渡を思い出しますが、佐渡で産出された金の合計は79t(最新では83t)でした。この菱刈金山は平成9年に累積産出量83.1tで佐渡を抜き日本一に。推定埋蔵量は260tと見積もられているようですな。最近の研究で佐渡金山の金の含有量は100g/tだったとさ抜群の金含有量だったようだ。(鉱山会社に技師として勤めている叔父に聞いた話しだから間違いないはず)

でも、トンで言うとイメージが湧きませんね。で、イメージが湧くように・・・。人類の金の発掘の歴史。6000年間に掘った金の総量が、16万1000トン。。。これでも実感わきませんな。体積で見ると、東京・代々木にあるオリンピック・プールの約3杯分でしかないのです。しかも、世界の推定埋蔵量は残り7万トンと言われており、年間の産出量はおよそ2200トンから3000トン程度と見積もられていますから、あと20年ほどで金は掘り尽くされてしまう計算になりますが・・・

日本は幾つものプレートが入り組んだ上に存在している「山」なので地下の鉱物資源が他の国に比べ豊富にあるはずなのですが、海外依存から脱却できずにいるのは大変残念な事でもあるのです。

ワタシ的には、このような機会が無ければ突き詰めて調べ上げる事も無いでしょうから、知るというのは楽しいもんでだ。。。ワクワクしますな。

さて、この文章を読んだ皆さんは、日本における金採掘の歴史をササッと垣間見る事が出来たわけです。金を扱っている方、そうで無い方も金は人間の手で地中深くから掘り出される金鉱石から精製・鋳造される事を是非、思い出して下さいな。


ではでは、佐渡金山の画像などを紹介しましょう。

まずは新潟港からフェリーとジェットフォイルで向かう方法がありますが、今回はジェットで・・・サスガやな、ボーイングだ。速かった。

















佐渡金山には2つの坑道が整備されていて見学が可能。良くある観光施設かな・・・と思っていたら、とんでもない設備と資料数で圧倒された。是非、お勧めします。

















































坑道内は肌寒く真っ暗。江戸の頃は蝋燭の明かりか油などを使うのがせいぜいだろうから、岩石の判別には慣れていないと出来ない専門職だと肌で感じます。

江戸の頃の採掘風景が再現されています。余計な音楽が流れてなくて静けさと石鎚の音が坑道内に響いています。

















当時の休憩場所。交代制ではあったようですが、地上に出られる事は滅多に無かったようです・・・

















金鉱脈が坑内で発見されると、「やわらぎ」という神事が執り行われたようです。とても神聖な雰囲気で山師達の強い信仰心が伺えます。金鉱脈は白い部分と黒い筋のある場所で、それを背に歌を歌うのです。

















そして、資料館では採掘から金貨になるまでを細かく紹介しています。当時使っていた道具なども・・・佐渡金山は歴史上、爆薬を一度も使わずに採掘をしていました。江戸の頃は画像のようなノミ、玄翁(ハンマー)、鏨(たがね)など、手掘りだったのです。

















そうして採掘された金鉱石がこれだ。

















佐渡金山の金鉱石は「銀黒」と呼ばれていて石英(白い石)に黒い蛇のような筋が通っているのが特徴で他の産地とは明確に違うようで天領だった伊豆の土肥金山は真っ黒い石が多いようです。

















そして、私が坑内を歩いていた時につまずいた石があったので記念にと・・・持ってきたのですが。あれ?銀黒?でも判断しかねるので知人の鉱物学専攻の友人に見てもらうことにしました。それがこの石。






































手渡す時友人が「おっ、これどうした?」と聞いたので「拾ったんだよ」と言うと・・・
「そんな事は分かるけど、どこで?」
「佐渡」
「これ銀黒っぽいね」と軽く言うじゃないのよ。
「でもさ、これどうすんの?」
「成分分析してよ」
「なんでだよ・・・分析忙しいしさ、今、日本海側の油田の話し知ってるだろ?それで忙しくてやってらんないよ・・・」
「オネガイシマス」

と言う事で、一週間ほど入院することになりました。


結果はどうであれ、日本各地から集まった今回の日本海ツアーは無事に終了となりました。新潟をセッティングしてくれた淳司さん、小松でBBQを自宅でしてくれた武司さん、本当に有難う御座いました。

そして、参加した皆さん、お疲れ様でした。

  


Posted by Blue eye's at 12:45Comments(0)行く先々の話し

2012年06月22日

翡翠原石探し。


昨日、無事に東京アジトに戻って来ました。栃木県足利市の仕事をスタートに移動距離2000km。怒涛の日々でした。色々貴重な経験が出来てどれを思い返してもニマニマしてしまう事ばかり・・・

今日のその1つ、糸魚川での翡翠原石探しだ。

糸魚川の翡翠と言えば、古くは縄文時代まで遡る青森県三内丸山遺跡からも出土しているにもかかわらず、歴史の中からその存在自体が忘れ去られてしまった・・・その間2000年。

鉱物考古学が発達し、その存在にスポットライトが当たったのは何と昭和初期までの時間が必要だった。相馬御風という文人(早稲田大学の校歌「都の西北」の作詞者)が糸魚川の翡翠の存在を万葉集の一節に見出した瞬間まで埋もれていた事になる。

その一節が万葉集巻13の「ぬな河の底なる玉 求めて得し玉かも 拾いて得し玉かも あたらしき君が 老ゆらく惜しも」 (ぬな河の底にあるうるわしい玉。私がやっと探し求めて手に入れた玉。やっとみつけて拾った玉。この玉のように素晴らしい君が年をとって老いるのが、ほんとうに惜しい。)

「なぬ河」とは糸魚川(糸魚川という川はありません)にある姫川の旧名「奴奈川(なぬかわ)」の事だ。遠く奈良時代からこの川では「美しい緑色の石」が取れることが分かっていたことになり、出雲の大国主命は、高志(こし=越、今の新潟の総称)の女王沼河比売(ぬなかわ姫)を妾(めかけ)にしたほど神聖であり重要な「石」であったに違いない。

まっ、そんな場所で3回、翡翠原石探しに挑戦してみたわけだが、ヒョッコリ行って「やりました!」というもんでは無いことは了解済み・・・しかも1時間そこそこだったしな。こんな海岸線で探すわけだ。





































私は2度目の挑戦だったけど無いもんだ。しかし、地元の人が実物を見せてくれた。やっぱりあるんですよ、翡翠は。





































サイズも色もバラエティーに富んでます。グヤシー!!





































そして、手持ちのライトで透明度まで見せてくれた。。。





































でも実際に今でも取れ続けている事が分かっただけでも嬉しかったな・・・そして糸魚川にあるフォッサマグナミュージアムで海岸で取れた石の鑑別を無料でしてくれるのでそちらも楽しめます。

まんず、1つ、取れるまで挑戦すると心に誓ったのでした。

必ず翡翠を手にいれてやるぞ・・・・と。



  


Posted by Blue eye's at 23:00Comments(0)行く先々の話し

2012年06月19日

新潟県糸魚川にて。



翡翠の産地、糸魚川にやって来ました。翡翠原石探しを挑戦中。。

駅前ロータリーには翡翠のシンボル、高志(こし=越・・・新潟の総称)の姫、奴奈川の姫の銅像が。





































結果は後日に。町には翡翠で溢れていますぞ。これは駅前にある翡翠原石標本オブジェ、、綺麗だ。







































頑張りますよ。  


Posted by Blue eye's at 17:43Comments(0)

2012年06月17日

糸魚川ブラック焼きそば。



今日は北関東は足利市から北関東自動道経由、北越自動車道で新潟は糸魚川市にやって参りました。道中、素晴らしい体験をしながらの到着でしたが、明日はミッションが控えているので長々とした記事を書けずになります。

さて、世の中B級グルメも飽和感が出てきましたが、ここ糸魚川も2年前から本格的な展開で足並みが揃ったようです。「糸魚川ブラック焼きそば」。イカ墨です。黒いんです。

この「ブラック」のネーミングは富山県が誇るラーメン「富山ブラック」にかぶってる感はぬぐえませんが色々美味し過ぎる食材が多くコスト的にも支持されるものをずーーっと考えていたそうです。


完成したのが、これだ。





































イカ墨独特のコクが焼きそばにうまく絡み付いて、中々の出来だ。完成度は高くないほうがあえていいB級グルメだ。良く考えられたセッティングです。これって、結構人気出るんじゃない?ウマカッタよ。





































キャラクターの「ブラック番長」もいい感じ・・・全国区になるといいね。


  


Posted by Blue eye's at 21:51Comments(0)行く先々の話し

2012年06月15日

COCOON コクーン



今回泊まっているホテルに「デトックスマシーン」がある。コクーン2という優れものらしい。何でも体内に蓄積している有害重金属類を体外に発汗と共に排出し、体内代謝をスムーズにする・・・と言う事らしい。


試運転中のコクーン。全くもって繭(まゆ)だね。





































準備が出来てコクーンに入り20分×2セット。。。


チーン!はい、宇宙人の出来上がり。。。






































初めてだったので効果の程は分からない。定期的に「入浴」するといいらしい。。。


  


Posted by Blue eye's at 12:20Comments(0)徒然な話し

2012年06月14日

伝 運慶作仁王像。



栃木県足利市に到着。足利を拠点に隣の群馬県館林市などを巡る3日間の仕事に来ています。昨日は足利入り、せっかくなので宿の近くを散策。と言うより、ホテル目の前には足利氏邸宅跡の鑁阿寺(ばんなじ)が広がっています。

鑁阿寺は、源姓足利氏二代目の足利義兼(あしかがよしかね)が、建久7年(1196年)に邸内に持仏堂(じぶつどう)を建て守り本尊として大日如来を祭ったのが始まりといわれています。


参道から堀に架かる反橋を渡ると楼門があります。





































楼門左右にはあの仏師「運慶」作と伝えられている仁王像があるのだ。これは驚いた。

右手には阿形(あぎょう)だ。





































左手には吽形(うんぎょう)。





































運慶は元々、京の朝廷に出入りしていた仏師だったが、朝廷に取り繕う仏師達の態度に反感を覚え独自の世界観を作り始めたが、京での仕事が減ってしまった。活躍の場所を、当時は東国と呼ばれていた実力の世界鎌倉に活路を求めた。

東国武士は己の信念を突き通す兵(つわもの)。堕落した朝廷に出入りする武士とは全く違う生き方をしてたのだ。運慶はそこに真の「人間」を見たわけだ。作風も繊細さよりは力強さを強調するのが特徴。


東国仏師となった運慶の心粋が伝わってくる迫力ある仁王像だ。


凄い物を見た。

  


Posted by Blue eye's at 16:54Comments(1)行く先々の話し

2012年06月12日

まったく・・・日本代表は・・・


オーストラリア戦1-1。グランド状態やホニャララはあるだろう。アウェーだと言う事もあるだろうよ。しかしだ、億の年俸をもらってる選手が5名(他の選手も何千万)もいる日本代表が、ナゼ、スッキリ勝てないんだ?スポーツ選手の価格というのは「勝つ=年俸」で選手は「商品」なんだ。ちょっと残酷な言い方なんだけど、プロとはそんなもんだ。

選手のコメントも「勝ち点取れたことはまずまず」「常に修正して・・・」「進化している」などなど・・プロの言うセリフではないと思わんのかね。私は根っからのサッカーファンでJリーグが始まる前からの人間だ。その辺のにわかファンとは違う。応援してるからこそ辛口なのだ、勘違いするでないよ。



トコロで、「登竜門」って聞いた事があると思いますが使い方としては「若手音楽家の世界への登竜門」など、ここを通らないとその分野では出世できない・・・といったニュアンスで使われます。

この話しは後漢書の李膺伝(りょうこでん)から。「竜門」は中国の黄河中流の急流で、これを登った鯉は「龍」になるという言い伝えから古くから使われるようになった経緯があるのです。

「鯉の滝登り」なんて言う応援歌もありますが、「強くなる」とか、「勝つ」と言った意味が含まれています。日本でも歴史上の武将は「鯉」を大切にしていました。城のお堀に放していたり広島城は別名「鯉城(りじょう)」と呼ばれるほど城主は鯉に「龍」の姿を見出していたんだ。





































これは池の鯉、激流を登っていくことはないだろうけど、龍の分身だ。


日本代表よ早く鯉のままじゃなくて、本当の「龍」になってちょうだい。どんな場面でも勝利を掴む強さを身につけてくれ!

と思うのです。



  


Posted by Blue eye's at 21:56Comments(0)徒然な話し

2012年06月11日

明日、オーストラリア戦!







































間違いなく勝つのだが、予想は2-1か3-2で日本。システム機能すると2-0で完封だ。まぁ、オーストラリアに勝てるスキはほぼ無いな。



さて、このところ日本の政治が慌しい。電力問題。

関西電力の大飯原発再稼動について日本国首相が声明を発表。「精神面だけでは乗り切れない」うん、確かに。この発言だけではだれも否定は出来ない完璧な発言だ。

さて、経済界から安定電力供給の要望が強く押し切られた感のある原発再稼動の話なんですが、ここで1つ、大口需要者・・・つまり大手企業の電力量が安いという話しを良く聞くと思うのだが、なぜか?という話しが出てきませんね。


電力会社との契約で、送電をなんらかの理由で出来なくなる場合に事前予告制度というのがあるそうで、「はい、送電やめますよぉ」と即刻送電中止と言うのが一般家庭の契約で、

大口企業に関しては
「では、1時間後に・・・」
「では、2時間後に・・・」
「では、3時間後に・・・」
と言うような送電中止オプションがあるそうです。

であるからして、この契約をする場合、それ相当の発電設備(企業のインフラ整備が発生しますね)があって然るべきなのが大口需要契約者の責務であるのです。であるから、電力は一般家庭に比べてエライ安いという構図なのですが・・・

どうも、この電力問題は違う側面が見え隠れしているのは周知の通り。現在の設備投資された生産ラインの省電力性能は1980年代に比べれば1/2程度のスーパーマシーンばかりだ。海外移転や生産効率アップで工場も集約化され使用電力量は格段に少なくなっている。

昨年、JR関東管区内ではラッシュ時の本数を減らしたり等の調整で原発が稼動はしていたとはいえ、ほぼ、マックスの20%程度の発電しかしていない状況でも全く問題なくクリアできた。まずは、色々ひと夏試せばいいのだ。昨年は関東、今年は第2の首都圏を目論む橋元さん頑張ってみて!と言いたくなる。

私は反原発とか環境保護過激派ではないの。あれだけの災害の後に、電力不足になるからやも無しという乱暴な政治判断をしてはいけないと思うのだ。

まずは、1つづつ確実に整理して行って然るべきなんだ。焦ってはいけない。既成事実になってまたなし崩し的に物事が進んでゆくのが今後の日本にとってNGと思うのです。


ところで、日本にはアメリカ、フランスに続いて54基だ。(世界第3位の原発を持つ国)。福井、福島、新潟など限られた地域に集中して、すべて海沿いに立地されていますね。世界には約400基、日本に世界の10%以上の原発がこの狭い国土に集中していると言う事だ。

原発による発電依存度は28%位(報道では多い!と言ってるけど、たかだかこの依存度で過剰過ぎる原発の多さは否定できない)・・・殆ど点検・稼動の繰り返しで日本の原発の老朽化は著しく1950年代の原子炉が今だ働いているところもあるのです・・・











何をするにもまず、現状がどうなのか?これからどうすべきなのか?この議論を粛々と進めないと次世代にとてつもない問題を引き渡す事になる・・・そこを我々現役世代が「真剣」に考え、議論し、行動しなくてはならない。


日本の人口減少が始まっています。


政治家全てに言いたい。全てに対して現状維持の理論が妥当か、少ないもので試行錯誤をして改良してゆくのが得策か。


答えは、明確だ。




  


Posted by Blue eye's at 19:17Comments(0)徒然な話し

2012年06月09日

川俣シャモ。

先日、お邪魔した福島県伊達郡川俣町。ここは歴史のある場で、平安時代から養蚕業・絹織物業が盛んだった事もあり、桑を使った特産品が道の駅には目立ちました。確か道の駅も「シルク館」というような感じでした・・・

平安の時代から朝廷に献上する絹を作っていた場所となると歴史上、幾多の勢力争いに登場してくる山間の里なのです。絹織物業に替わって、自動車部品・電子部品製造などの工場が立地し産業構造の変化が進んでいますが、原発事故の一時期の避難勧告で操業は縮小傾向。

川俣町に入る前の飯舘(いいたて)は街道沿いの大手スーパーは閉店、飲食店や旅館もクローズ・・・人は住んでいるようですが、機能している状況ではありませんでした。目に見えない放射能の拡散、滞留は地理的・地形的偏差があるようで、南相馬から東北道に向かう山越えの道は現在の避難区域付近の福島県の現状が良く分かるルートでした。

そして、この川俣は知る人ぞ知る、南米音楽の日本のメッカ。1975年から続く「コスキン・エン・ハポン」は国内最大の中南米音楽祭です。知ってました?

そして、もう1つ川俣が現在売り出し中の特産品「川俣軍鶏(しゃも)」。取寄せて食べてみそ、うめーどー。スモークから色々な商品がネットで入手可能。


これは道の駅にあった川俣シャモの剥製。立派な軍鶏で驚いた。






































避難区域外の福島の皆さんは元気だどぉー、福島産の市場に出ているものは分け隔て無く「選択肢」に入れてましょう。その後に値段やらで「通常判断」することをお勧めします。

「フクシマ」は世界的ワードになってしまいましたが、住んでいる人は全くの普通に普段通りだ。子供たちも学校に通い、ご飯を食べてるんだ。


こんな時こそ、固定観念は捨てなくてはならない。


市場に流通しているメイド・イン・フクシマは何ら問題なし!異常無いのだ!福島県産品を購入・消費選択肢から外しては何の支援にもならんのだ。


言葉だけの「支援」「絆」はもういらない。




PS 佐伯N社長・・・このシャモが川俣シャモカレーに使われていますよぉ。。。サッパリ系でしたね、トマトと合わせていましたもんね・・・。  


Posted by Blue eye's at 17:52Comments(2)徒然な話し

2012年06月08日

原発立ち入り制限区域



先日、東北から東京に戻るルートは福島経由で戻りました。東北道仙台南ICから仙台自動車道に入り福島に入るルートです。震災後、仙台自動車道を通るのは初めて。仙台平野には海岸線の松林を乗り越えて津波が押し寄せ、この仙台自動車道から海側のエリアはほぼ壊滅状態。

震災前はどこまでも続く畑と水田ありましたが、現在はほぼ、放棄されています。進行方向左が海側で、右側が津波被害が仙台自動車道が土塁の役目を果たして、さほどの被害が出なかった地域です。水田は田植えが終わり秋を待つばかりになっていました。


仙台自動車道を福島に向かい進みます。ここは名取地区付近。襲い掛かる津波の画像が良く紹介された場所です。道路左は一面更地。





































仙台自動車道を下りて、国道を一路福島に向けて走り、「野馬追い」で有名な南相馬に到着。休憩後、可能な限り原発に近こうと山の中を走ります。

そして規制線に行き当たりました。





































この規制線を境にあちら側は人が入る事すら許されないエリア。匂いがするわけでも、色が着いているわけでもなく、ただ、立ち入り禁止。





































何か変わるのか・・・興味があったので規制線を越えてみました。規制線外側から蝶や鳥が飛んできます。その逆も普通に・・・ここにはなんら規制を受けていない自然界が存在しています。ただ、人間の限界線が引かれているのです。






































線量計で測定すると0.55マイクロシーベルト。関東地方で毎日放送されている都内の線量は0.12マイクロシーベルト付近。やはり高いレベルのようです。

そして、驚いたのが、この規制線から少しはなれた開けた住宅地付近のほうが線量が高いという事実でした。そこは1.1マイクロシーベルト。年間許容範囲の何倍もの値になります。

あの震災では幾つもの災害が被災地を襲っています。そして、今現在も進行形なのです。報道での議論はここに来ると、茶番の何者でもありません。何をどうするか?は明確なのです。

現在、このエリアに住んでいる方々は生まれ育ったここで最後を迎える覚悟が出来ている住民の方々です。国が認可した場所であれば定期な健康診断。幼少期は少しはなれた場所で育てる等の法的カバーが必要なのです。

日本人はよっぽどの事が無ければ、生まれ故郷を離れる事はありません。その国民性に合わせたセーフティーネットが福島には必要なのです。

電気代議論は基本的人権の「生きる権利」を整備してからすればよい。それまで電力会社は国の管轄において合理案を国主導で進めれば良いではないか。

電力会社や一部コメンテーターが言う、旧体の政党が推し進めてきた原子力政策なので現政権と電力会社に非を押し付けるのは酷だ・・・というとんでもない事を言う「知識人」がいる。現在の状況は「有事」。国がリーダーシップを取って各自治体首長にお伺いを立てている時期ではないのだ。

原子力政策をどうするかは、電力会社は一時国有化の時期に国会で議論すれば良い・・・しかし、選挙の事を考えるとどの国会議員もこの事は言えまい。現在は電力会社と政府がさじ加減を投げ合っているだけだ。全く話にもならん。

そして、日本人という国民性は、妙な所で「個人の人権」を叫ぶ気質がある。この気質が日本の復興の一番の足かせになっていることに「私たち」が気づかなくてはいけないのです。



まずは、行ってみて感じて考えてみる事だ。



これからの日本を考えるチャンスなんだよ今は。

  


Posted by Blue eye's at 10:38Comments(0)行く先々の話し

2012年06月07日

画像アップ出来ず



連日記事をアップしようと思うのですが、うまくいきません。

すみません。
  


Posted by Blue eye's at 20:46Comments(0)

2012年06月04日

東北シリーズ最終日。



大崎市古川、石巻市、登米市佐沼と10日間の東北シリーズ最終日となりました。今回も沿岸部を回らせて頂いたり、鳴子温泉郷、かりんとう製造元見学・・・などなど、盛りだくさんの経験をさせて頂きました。


佐沼で毎回お世話にっているインショップ。このイオンモールがオープンする時からのお付き合いです。開店前の専門店エリアですのでちょっと暗いです。





































館内には父の日の企画が目立ちます。地元のお子さん達が書いたお父さんの似顔絵が展示しています。







































さて、千秋楽。頑張って参りましょうか。


  


Posted by Blue eye's at 10:05Comments(2)私の仕事の話し

2012年06月03日

SHIZU革



南三陸町の志津川という沿岸部の街があります。現在は更地になっています。津波で家屋を流された方々は仮設住宅に住んでいますが、この方達の勤労意欲は凄まじいのです。「働きたい!」、住む場所よりもやっぱり人間は働く願望が先に芽生えるんだとつくづく思うのです。


先日沿岸部を訪問した際に通過した現在の志津川。



















この志津川町の女性の皆さんが作り方を習って、革製品のブランドを立ち上げました。


SHIZU革(しずがわ)


支援商品は巷には増えましたが、復興する側の社会参加型商品は直に現場にお金が入ります。そしてこの作業をしている人達が収入が増えることで、そのコミュニティーが少しずつ元気になっていく(現金が循環し始める)のです。






































何かをしなくてはと思ってやり始める人を後押しするには持って来いの商品です。

直接、現場に反映する支援商品の1つです。


  


Posted by Blue eye's at 12:09Comments(0)徒然な話し

2012年06月02日

陸前高田。


先日、岩手県、陸前高田に行ってきました。福島・宮城・岩手・青森までの広大な海岸線は瓦礫の処理が進まず、更地になったまま。人が戻ってくる状態ではありません。

私はただ、見に行って伝える事しか出来ません。支援は必要ですが人が戻るまでには・・・というか、戻れる事が出来るのか途方に暮れる惨状のままなのです。

先日、ニュースで陸前高田の「奇跡の一本松」が切られて保存するほう方向性になりつつあると聞いた。もう、自立している松を見る機会は無いと思い、行ってきました。


陸前高田に入る前の高台から、力強く空に伸びている松が見える。横の建物は陸前高田ユースホステル。

















一般車輌立ち入り禁止で近づくことが出来ないので、現場の方に断わってから瓦礫保存場を横切って近づきます。

















そして、元公園の広い場所に出ました。目の前に「一本松」が。

















始めまして、島内と申します。今日はあなたに会いに来ました。





































先ほどまで曇っていたのですが、薄っすら日が差してきました。





















































一本松の仲間達が住んでいた現在の松林跡地です。













延々と続く、松林の痕跡。海岸線は60mほど流されています。ここは報道されない場所です。鞄や衣服、靴などがまだ当時のまま残っている海岸線です。松林の残骸は綺麗に撤収されていました。

















一本松の兄弟がいるのを知っていますか?200mほど離れた所に、もう一本、松が残っています。





































この一本松もしばらくの間、延命治療をされていた痕跡がありました。でも、この子は津波で全て枝をもがれてしまったので、ほぼ、紹介されずに切られてしまいます。

















遠くと、上ばかり見てたのですが、足元には、砂浜を彩る綺麗な花が咲いていました。








































ここに以前のような松林になるまでに、200年の時間が必要なのです。



自然の営みなのか、災害なのか・・・正直、沿岸部を見て回ると分からなくなるのです。


  


Posted by Blue eye's at 22:46Comments(2)行く先々の話し

2012年06月02日

宮城県登米市佐沼初日



昨日まで石巻市で2日間。本日より3日間、震災当日に居合わせたここ佐沼でお世話になります。

佐沼は南三陸町の陸側になるので仮設住宅があります。また、復興工事の拠点にもなっている場所ですので仮設住宅入居が始まった頃は、このイオンは買い物客でごった返していました。

1年経過した現在、店内は落ち着いた雰囲気で以前のような感じに戻りつつあります。


では、3日間、頑張って参ります。






































お店は3名体制、左が店長。もう1人はお休みでした。。。



  


Posted by Blue eye's at 11:46Comments(0)私の仕事の話し

2012年05月31日

大崎市古川探訪記・第六話。


さて最終回、第六話です。


古川市内から少し行くと岩出山(いわでやま)という小高い丘・・・山があるのですが。岩出山は明治維新まで仙台藩主が居城とした場所。仙台藩祖伊達政宗が青葉城(仙台城)に移る前に徳川家康から与えられた城。青葉城に移る直前までの12年間の居城だ。青葉城に移った正宗公は四男にこの城を居城させ、岩出山伊達氏が明治時代になるまで治めた場所です。

さて、この岩出山城跡地には伊達政宗公の立像があります。この立像、実は現在の青葉城に元々あった立像です。建立当初は銅像だったそうですが、戦中に接収されて現在のセメント製になったそうです。





































中々紹介されない後姿。





































この立像の看板。





































この立像をセメント製にする際に、私の父が勤めていた会社が材料を提供したことが書かれています。こんな所で縁があるのは有難い事です。


岩出山からの眺望。城があった頃、正宗公はこの風景を見ていたと思うと感慨深いものです。





































六話に渡り、大崎市古川探訪記をアップしてきました。今回、素晴らしい経験をさせて頂き感謝感謝です。

また次回お邪魔するときはさらに見聞を広める事が出来ればと思います。


それでは、終了。
  


Posted by Blue eye's at 16:20Comments(0)行く先々の話し