2012年05月30日
大崎市古川探訪記・第五話。
今回の話はこの画像から始まったのです。
大崎市古川には、かりんとうが何種類か流通しています。その中でもこの「ひさごの和菓子 かりんとう」を食べてご覧なさい・・・と食べたところ、止まらなくなる美味しさ。かりんとうと言うと、棒状のものを思い浮かべますが、こちらはちょっと違うのです。
ポテトチップスまでは行きませんがペランペランで油で揚げた状態のお菓子を指すのです。
問題の画像がこれです。
この画像をとある方面で紹介したら・・・是非、送って欲しい!と・・・。紳士淑女の文言でお一方だけ、私の心が動いた方のために、無理を言って最終日に連れて行って頂いたのです、製造元。この画像はレアです。地元の方もわざわざ行かないそうです。
今回送らん方々、連絡先は教えてあげるからここに電話して代金引換で頼むと良い。
しかし、なぜ、製造元に行ったかと言うと、一斗缶バージョンを入手する為なのです。市内でも道の駅に一缶だけとかしかなく他の製造元は結構見るのですが、ひさご菓子店さんのは殆ど見ないのです。
民家が続くとある住宅街にポツリとありました。ひさご菓子店!
電話でお願いしていたので準備してもらっていました。一斗缶。この状態なんです。この中に上の画像のかりんとうが10袋入っているそうです。外に出したのは私ですよ・・・念のため。網戸の中に置いてもらってました。
そして、網戸越しに見えるおじいちゃん(多分先代の社長だと思います)が揚がったばかりのかりんとうを袋に詰めているのですが、私たちの気配を感じたのか何度も振り返り「撮らないでよ・・・」と言わんばかりのオーラを出しているんです。
到着と同時に、専務が新規に5缶注文しました。作業場はにわかに緊張感が・・・おじいちゃんの後ろを袋詰めされたかりんとうを取りに向かう従業員さん・・・小走りだ。
そして、意を決して撮ったら・・・こっち見てた。。。
このじっちゃんには従業員(若社長の嫁と思われる)さんや、電話と新たな注文に対応してくれた方(現社長と思われる)も言葉を一切かけないのです。昔ながらの仕事風景なんだろうな・・・・
じっちゃんに見られたんだ、もう怖いものなんかねえべ、と思い、伝票を書いてもらってる間に開いてる入口の網戸からかりんとうを作っている作業場を。
ついでだ!じっちゃん、撮らしてくれ!
なんだか、嬉しいやら気疲れしたやらの時間でした。でも、貴重な体験でした・・・間違いない。
そして、ここから少し離れた古川市内にもある地元の方に愛されているラーメンの名店「いろは」の本店に突撃してきました。
ここも観光客には難しい場所だ。ほぼ地元と観光客でリピーターと思われる方しかお見受け出来ません。しかも、古川市内からは少し離れているのでまさに「地元限定」の色が濃厚。
看板も暖簾も無し、普通の民家です。
そして、脇に回り進んでいくと木造の食堂が。ラーメンを食べにお客さんが机に整然と並んで食べています。もはや学校状態。
これが「いろは」のラーメン。チャーシューでは無くて鶏肉が特徴。そして、醤油ベースのスープに熱々の油を入れるので上澄みに油の層が出来るのです。熱くて食べ方は慣れていないとやけどしそうです・・・でも全く脂っこくなくてサッパリ。麺は細くてストレート。ボリューム満点のラーメンです。うめーどぉ。
忙しい厨房は若夫婦で切り盛り。
どうでしたか?第五話はこれで終わりです。
大崎市古川探訪記は次の六話で完結。今回、心の余裕も出たのかタイミングか・・・すっかり専務にお世話になり色々リクエストをさせて頂きました。本当に有難い時間を過ごせました。
行く先々では仕事内容だけでは無く、これからもこのような内容をお伝えします。
それでは次回、古川最終回です。
2012年05月30日
大崎市古川探訪記・第四話。
大型連載になって参りました。古川探訪記、第四話になります。
今回巡った鳴子温泉郷の「鳴子(なるこ)」の由来は考えもしませんでしたが、JR鳴子温泉駅にその由来のプレートがありました。
まずは、鳴子温泉の歴史上の記述ですが「続日本紀」837年に出てくると言うから驚きです。とてつもない歴史を持つ湯治場なのです。そして、その由来は激しい火山活動で発生した「音=鳴声・鳴郷」からという説と、源義経が鎌倉を追われ平泉に向かう途中この地で長男の産湯として使ったという伝説からの2つの説があるそうだ。(プレートから要約)
うむ、どちらにせよ歴史のある温泉郷に違いない。1200年は優に超えるこの温泉は間違いなく、我々の先祖達が浸かっていた源泉だ。
現在の鳴子温泉街の様子。どうしても観光客向けになるのです日本全国共通な風景・・・ここでは温泉に入りませんでしたが、駅に足湯があったので手だけ入浴したので鳴子温泉郷五大温泉は東鳴子温泉だけが未体験?となりました。。
手先だけ入浴した紛れも無い「鳴子温泉源泉掛け流しの足湯」にお母さんと兄弟に居合わせたのですが、お姉ちゃんお兄ちゃんが気持ち良さそうだったので記念写真撮らせてもらいました。
この親子さんは気仙沼から観光で遊びに来ていたそうです。
そして今回巡らせて貰った鳴子温泉郷は青春18きっぷで行く温泉番付で堂々の東の横綱に選出された名湯でもあったのだ。
さて、温泉巡り記事はこの辺で終わりになります。
これからの記事は、古川の皆さんでも知る人ぞ知るの「ご当地でもとってもレアな食べ物特集」に突入してます。今回、色々案内して頂いた地元に精通しているからこそ行けた場所ばかりです。
まずは、古川の方もあまりご存知ではない、鳴子名物「手作りジャンボギョーザ」もうこれ撃沈でした。。。2つでギブアップ。皮はパリパリではなくてモッチリ、底の部分だけパリッとしていて子供さんは具まで辿りつけないほど。これは、巨大なおにぎりです。
お客さんは地元の方ばかり。一族郎党で皆さん大挙して食べに来るようです。午後2時位に着いたのですが、結構、お客さんが入っていました。皆さんのテーブルに出てくるラーメン見てるともの凄い量なんですよ、ラーメンが。私は完食自信ないほど。
お店の名前はあえて書きません。メニューだけお見せします。
古川探訪記、「温泉」から「食」になりました。。。
次の「食」記事はまた面白いですよ。ご期待下さい。
2012年05月29日
大崎市古川探訪記・第三話。
どんどん進めましょう。連続で第三話行っちゃいます・・・
次の温泉は、鬼首(おにこうべ)温泉の間欠泉(かんけつ)温泉。ここでは温泉に入るつもりではなくて、間欠泉があるのをたまたま街道沿いの看板で見たので無理を言って連れて行ってもらった場所なんです。山深い場所で古川からでもあまり地元の方も足が向かない程の場所とのこと。
鳴子温泉郷の中では秘境の部類に入るのは間違いないと思います。間欠泉とはは地下水が地熱沸騰して地上に噴出す噴水のような現象です。10分~15分間隔で噴出すのですが、地球の息吹そのもの、初めて見たので大感激でした。
シュシュシュと音がした次の瞬間、フボーォォォーっともの凄い勢いで温泉が吹き出ます。霧状になるので何とも無いのですが、油断してはいけない、ここも温度は98℃ほぼ熱湯です。。。
間欠泉から少し下った川沿いに専務が発見「島内さん、ここ温泉じゃないですか?」「えっ?」・・・・
なんと、温泉がしかも源泉掛け流しではナイデスカ!!
ここの間欠泉見学料は400円。鍾乳洞見学の様にお金を払うのですが、この文字を見つけた瞬間「車にタオル取りに戻りましょう」と、いそいそと戻りがてら、先ほどのチケット買った方に「あの温泉は入れるのですか?」と聞くと「どうぞ自由・・・」だと!
大の大人が(私だけだったかも・・・)わさわさとタオルを持って脱衣所らしき所へ一直線。
おいおい、これは凄いことになってきたぞ、いいのか?こんな事って・・・
この温泉がこれだ。
だーれもいません。人の気配もありません。2人で独占でした・・・・そして気が付いた事があります。この温泉に入っているとき、間欠泉が一度吹き上がったのですが、源泉が流れ込んでくる場所からその時だけ猛烈な勢いになるのです。
これだけ大きい露天にした理由が分かります。流れ込んでくる源泉は80℃位です。熱いのですが下のぬるい部分と上澄みの熱い部分が何だか心地よいのです。これにはたまげた。
初めての間欠泉、そして思わぬ事での温泉を頂いた事、点数は3億5千万点!
ところで、鬼首(おにこうべ)・・・地名の由来は勉強しておきましょう。
そんな鬼首温泉、驚きと感動の連続でした。
そして、鬼首の歴史的なお話しをもう1つ。時の藩主、伊達政宗公が徳川家に睨まれているときに正宗公の騎乗している愛馬を避難させたのがここ鬼首。そしてその馬の末裔が明治天皇が騎乗された馬です。
ここは「秘め」の文化が色濃く残る歴史の上でも要衝であった奥深い場所でなのです。
2012年05月29日
大崎市古川探訪記・第二話。
さて、第二話。本日は鳴子温泉郷五大温泉の中山平(なかやまだいら)温泉の「しんとろの湯」ここの温泉は凄かった。温泉に入った瞬間に肌にトロトロの膜が出来る感じなのです。入浴料は420円。
街道沿いにポッコリ現われるこの建物が目印。秋には紅葉の美しい鳴子峡を過ぎるとやがて見えてきます。
ここの源泉の温度は猛烈に熱い。98.4℃。樋を張り巡らし温度を下げる方法で45℃位までに温度を下げている源泉掛け流しの水混ぜ冷却無しの温泉です。ちょうど、お昼時に到着したので浴場内には他の方と私と案内してもらった専務の3名での贅沢な空間でした。
「しんとろの湯」の湧き出した源泉を溜めるタンク。ゴッポゴッポと音を立ててまるで噴火前の火口のようです。
先ほどのタンクから絶妙な量を樋(とい)に流すんでしょうね。空気になるべく晒す事でちょうど良い温度にしているのです。樋は斜面を何段にもなります。
あたりを見回すと同じような光景が広がっています。蒸気機関車のような水蒸気が至る所から吹き上がっています。遠くでは木々の間からも噴出しているのでジブリ映画のシーンのようで圧巻。
と言う事で、第二話は中山平(なかやまだいら)温泉の「しんとろの湯」でした。
ここも良かった。
2012年05月28日
大崎市古川探訪記・第一話。
大崎市はデカイ。宮城県では2番目の面積を誇る自治体だ。山形県・秋田県を県境に持つ街道の要所を担ってきた土地柄です。この歴史的なお話しは他の記事にする事にして、第四話編成でお送りする予定の温泉紀行記事です。五話目は歴史的な話しをと思っとります。
今回で12回目の催事。足掛け3年お世話になっているここ古川、ようやく色々見て回れるようになりました。特に今回は、お世話になったお店の専務に車を出していただき沿岸部や山間部の視察に連れて行ってもらい本当に感謝しています。
それでは、第一話のどんぞ。
宮城県大崎市と言えば、鳴子温泉郷。鳴子温泉・東鳴子温泉・川渡温泉・中山平温泉・鬼首温泉の5大温泉から構成されている日本屈指の温泉郷。それぞれが個性があるのでしょうけど、私は3温泉制覇してきたのだ。
川渡(かわたび)温泉藤島旅館、ここは雰囲気と言い全てが私の理想の温泉。温泉の画像は撮れませんでしたが地元の方々に愛されている温泉です。入浴料は200円。
ここは湯治場、自炊できるようになっています。関節痛には素晴らしい効能があり、「脚気川渡(かっけかわたび)」と言われ、この鳴子温泉郷で最古の歴史を誇る戦艦級(勝手に思ってます)の温泉。その効能は遠く京まで届いていたそうです。
湯治客向けの旅館内の売店。売ってるものが渋いのです。雰囲気もバッチリ。
玄関はこんな感じ。ガラガラと昔懐かしのガラス戸を開けると広がる昭和の匂い。もうこの時点で私は撃沈状態でした。
川渡温泉は本当に落ち着いた場所の歴史を感じる土地です。古川からも電車で気軽に行ける場所。なんでここに来ようとしなかったんだろ・・・これだけ来ているのに。。。
硫黄泉で源泉掛け流しで、58.3度だったかな?もちろん、空気冷却でたぶん42度位になっているんだと思いますがとにかくポカポカ感が続きます。シルバーのリングが一瞬にして変色してしまうほどの威力でした。
どの位の硫黄の威力かと言うと・・・・
指側も少しオレンジ色なってきていますが、表は全て硫黄の威力でご覧の通り・・・翌日、クリーニングしましたけど。。
という強烈なインパクトで私を迎えてくれた鳴子温泉郷、次号は中山平温泉編です。
ここも凄かったぞい。
2012年05月27日
サファイア原石
サファイア原石を紹介します。宝石のサファイアは皆さん良くご存知の青い宝石です。9月の誕生石でもある日本人には馴染み深い宝石です。
サファイアはコランダムという鉱物の種類で、非常に古い鉱物です。なんと!30億年以上の地球の記憶が詰まった出来上がるまでにとてつも無い時間が必要な鉱物なのです。サファイアの語源はギリシャ語・ラテン語の「青」から来ています。古より「青い石」として人間との関係があった証し。
時の権力者やセレブに愛いされた宝石でもあるこのサファイア、有名なオーナーとしては故ダイアナ妃で形見としてウイリアム王子の婚約指輪でリメイクされてお妃(きさき)にプレゼントされましたね。
さて、このサファイアの原石を見たことはありますか?中々お目にかかれるものではありません。ほとんどのサファイアが1000℃程の加熱処理であの「青」が出てくるのです。
原石はこれ。この原石をカットして研磨して・・・そして、市場に出てくるのです。
色々な人の手を経て、宝石になるのです。
2012年05月26日
松島十二支館
2話続けて奥松島の現状を紹介しました。
松島では少し変わった博物館?を見学してきました。十二支館という所なんですが干支の守護本尊の八尊が展示しています。それも巨大な乾漆像ばかりで驚いた。
修学旅行の小学生達が見上げています。
知恵を司る「文殊菩薩」。獅子に菩薩さんが乗っている卯年の守護本尊。
辰・巳年の守護本尊、普賢菩薩です。三本牙の白い聖獣に乗っています。この象は今まで見た中で最上級。
残念、少しピン甘だった・・・目がいいんだ。
気に入ってしまったので、記念撮影してもらいました。
私の守護本尊の大日如来。申未年です。因みに私は申年です。
この十二支館には不思議な逸話が残っています。震災の2011年は卯年でした。松島も津波が押し寄せてきました。多くの島々が点在する松島の地形も影響あったとは思いますが他の沿岸部に比べ甚大な被害は少なかったようです。
ここ十二支館にも2m程の水位が押し寄せてきたそうですが、卯年の文殊菩薩が獅子から落ちて首が落ちて唯一破損した守護本尊だったそうです。新聞記事で話題になったそうです。他の守護本尊像は倒れる事も破損する事も無かったそうです。この記事の最初に紹介した青い獅子に乗った守護本尊がその実物。修復は済んで現在は公開されています。
不思議な不思議な話しが松島にはありました。
2012年05月26日
現在の奥松島、その2。
先日の続きです。奥松島の鳴瀬第二中学校から少し陸側に向かいJR仙石線の野蒜駅に向かいました。
ここは海岸から2キロほど内陸になりますがここも津波の甚大かつ壊滅的被害が及んだ所です。辺りの住宅地はすべからく更地になっていて、ここに人の営みがあったこと自体、想像できない光景が広がっています。
沿岸部の復興基本計画すら定まっていないので、仙石線の復旧工事も出来ぬまま当時の状態で駅舎は来るはずも無い列車を待っています。
駅名看板に津波の水位の跡が残っています。3m~4mの津波が押し寄せているのが分かります。
ベンチには広告がそのまま。水圧で密閉して水が入り込まなかったのでしょう。
駅横のコンビニも当時のまま。押し寄せた津波の威力の凄まじさが分かります。
ありとあらゆる物が破壊されました。道路標示の鉄塔すら飴のようにグニャリと折れ曲がっています。
駅前の交差点。通学する生徒達を見守る事無く働いています。
今回車を出して頂いたお世話になっている専務です。2人でただ唖然としてしまう光景です。
そんな駅舎ですが希望があります。つがいでツバメが巣を作っていました。ここから新たな命が飛び立つのです。
うれしい光景を見ました。小学生がホームで少し遊んだ後、自宅に戻ったのです。この地域を担う世代の子供達です。
震災当日と宮城県で仕事をしていた私は、事あるごとにあの日の出来事を思い出します。そして、震災後3回仕事でお邪魔しています。瓦礫は集積され一見綺麗になっているだけで、沿岸部は全く復旧が進んでいないのです。
なかなか復興計画が進まない中、地元を離れる方、そこで生きてゆく事を決断した方・・・様々な思いが錯綜する沿岸部は補助金を受けたとしても身動きが出来ないのです。避難した先、仮設住宅で先の見えない時間を過ごす事になります。沿岸部の方々は明るくは振舞ってくれますがその心中は推し量る事は出来ません。
繋いだ命を早く活躍させてあげるように、計画が進む事を強く願うのです。
東北沿岸部の方々をはじめ、震災で被災された方々全員が一日も早く上を向いて歩けますように。
2012年05月24日
現在の奥松島、その1。
今日は今回お世話になるお店の専務にドライブに誘ってもらいました。
観光地で有名な松島で昼食を取った後に、地元の人しか訪れない奥松島を訪問してきました。震災から1年経過していますがテレビでも報道されているように更地になった街には人は戻ってきていません。まだまだ復興計画が決まっていないのが実情。地盤沈下もしていて、瓦礫処理も進まず前に進むには程遠い状況なのは訪れると分かります。
2回に分けて、現在の奥松島の状況を紹介します。
観光客で賑わっていた松島から車で15分もしない風光明媚な奥松島は依然として手付かずの状況なのです。これは奥松島の広域瓦礫中間処分場の仮設道路。元々は住宅地です。
この水は海水です。抜けずにまるで池のようになっていますが全て住宅地があった場所。
重機がむなしく分別をしています。もうここにはそれほどの瓦礫は集まってきませんが、1度分別している瓦礫の山をまた崩し、再度分別しているようです。早く瓦礫を最終処理をしてこの海水の溜まった土地を甦らせないとなりません。
ここは地元の方も来なくなりました。夏は海水浴客で賑わう美しい海岸線のあった成瀬という場所です。
入り江に流された建物ではありません。陸地だった場所です。信じられますか?まだこのような光景が延々と東北の海岸線沿いに続いているのです。
前方に松の木が2本残っています。ここは延々と続く松林でした。夏には涼しげな木陰が広がってたはずです。。右手は美しい砂浜の続く海岸。毎年、宮城県内から多くの海水浴客が集まった有名な海岸です。
海岸から200mも離れていない場所、廃校になった成瀬第二中学校。
ここを学び舎にしていた生徒達はみんな元気かね?立派な人物になるだろな。
福島の原発問題がクローズアップされている現在、それは、確かに仕方あるまい。しかし、昨年東北を秋に訪れた時から目立った変化が無いのが実情です。それよりは、半壊している自宅に戻り、補修工事を始めている方々が目立つようになってきています。
国の復興計画を早く進めなければ、このように戻ってきている方々を再び、立ち退きを求めると言う事にも為りかねない。それは、必ず起こりうる問題。
海水が溜まっている土地に花を植え始めている人、畑を耕し作付けを始めている農家の方々。水没している港に船を係留して漁を始めている漁業者の方々。東北の人々は動き始めています。
世間からの関心が薄らいできている東北三県沿岸部の方々はもう声高に要求を言わなくなっています。寡黙に淡々と生活を元に戻そうとしているのです。
さて、次回は「現在の奥松島、その2」です。
2012年05月23日
東北へ移動。
宮崎から帰り、東京滞在正味1日。今日は上野駅まで満員電車に大荷物を持って移動でした。腰は限界に近くなっているぞ。。。
では道中の画像なんぞ。
上野駅から常磐線で水戸に向かいます。三鷹を出てから既に1時間経過。やっぱり、お~いお茶です。
常磐線「神立(かんだつ)駅」私の祖父方一族の住む土地です。祖父方は筑波山近くの豪農だったそうで、土地の名前を使う事をはじめに許された経緯があるそうです。祖父は神職と獣医師を掛け持ちをしていて先の大戦中は軍用馬の治療で南洋に出向いていました。
そして、常磐線で2時間10分水戸駅到着。車隊に合流。陸路で一路、東北へ。
水戸からは。常磐自動車道で郡山ICまで向かいますが、分岐点で南相馬方面があります。途中、未だに災害通行止めの電光掲示板が目に入ります。
途中のサービスエリアのマップ。この海岸線全てでの海産物の放射能汚染が心配されているのです。豊かで美しい海岸線です。色が付いていない県が福島県になります。
そして、毎度使わせてもらう東北自動車道に入り見慣れた風景が続きますが、今回は常磐道も東北道も路面の補修改修工事で1車線の通行規制箇所が多かった。やっと補修工事が始まったようです。震災後、物流の大動脈と言う事で1週間掛からずに全線開通しました。
物流は確保できましたが、路面は亀裂の仮補修跡や大きく波打ち、速度規制は80キロ。高速運転はハンドルが取られるので夜は少し怖い感じでしたが、これで安心です。
それでは、頑張ってみます。
2012年05月20日
宮崎市内散歩。
今日は完全休養日で、のんびり過ごしました。時折雨の降る天候でしたが、橘通り沿いはアーケードが続いているので傘が不要。ちょっと宮崎県庁を見学に。
県庁前の通り両側は欅(ケヤキ)の回廊になっていて気持ちがよろし。
ふと、見上げると欅の枝に蘭が育っています。人目を楽しませる為に根を張らせたのでしょう。見事に育っています。
そして、到着。宮崎県庁。前県知事の東国原さんが就任早々、鳥インフルエンザ、退任前に食肉牛の口蹄疫病と色々な場面で登場してきた県庁です。いつもはタクシーや車で素通りなので一度はと思っていました。
宮崎県は天孫降臨の里、高千穂の山々を抱える県でもあります。日南海岸をはじめ、素晴らしい観光資源が羨ましいほどに溢れている県だと思うのです。
今年、宮崎県は古事記編纂1300年と言う事もあり、空港などでは大々的にポスターで日本神話の故郷を強調しています。今一度、この県のはたまた九州と言う土地を日本の歴史の中で思いを馳せるには丁度良い機会でもあるのです。
しかし、私はこの県庁で見てはいけないものを見てしまったのだ。宮崎県が選定した、シンボルキャラクターだ。
なぁ~ぜ、みやざき犬(けん)なんだ!しかも、「ひぃ・ふぅ・かぁ」各君か、ちゃんなんだ?百歩譲っても「ひぃ・ふぅ・みぃ」じゃないのか?・・・古事記になぞらえて、海の幸・山の幸の溢れる県なんだから、海幸君・山幸君とか、龍宮城の豊玉姫から頂いて豊玉ちゃんとかさ・・・色々あるんじゃないのか!!!と頭の中でしばらく考えてしまい、案内してくれた休日担当のガードマンと話し込んでしまった。
「公募で決まったもんなんで・・・」
「そうでしょうね・・・」
とぼとぼ宮崎県庁を後にしました。
しかし、皆さん、宮崎市街地は街路樹が良く手入れが届いて花壇も至る所にあって花に溢れた所です。一般企業も規模の大小関わらず植樹と花を道行く人に見せるために毎朝お手入れをしている姿を目にします。鳥インフルエンザ・口蹄疫の影響で観光客が激減し、多くのサービス業や飲食店、畜産家が廃業に追い込まれた事を機に、今まで以上に明るい街にしようと、官民上げてのガーデンシティを目指したそうです。
そして、日豊本線沿いの大分県とここ宮崎県は九州新幹線が通っていない県ですが、沢山の魅力がこの2県にあるのです。溢れんばかりの魅力ある大分県・宮崎県に一度はおいでなさい。
しかし、みやざき犬か・・・
2012年05月19日
宮崎市ブティック催事終了。
怒涛の様な3日間が終わりました。結構疲れたかな。。。印象的なお客さんが何名かいらっしゃいました。場所は橘通りという宮崎市のメインストリート。その両側に商店街や商業施設が並んでいて同業のお店も多い中、頑張っているお店でした。
今日は私達、業者メーカー連合は撤収移動日(私は宮崎泊)なので1700頃から撤収作業を始めあっという間に移動準備完了。お店のスタッフは通常営業陳列に戻す作業を急ピッチでしていました。
生ビール1杯でグデングデンになる催事元のMさんも移動前に伝票整理を慎重に進めています。
そして、今回お世話になった社長兼先生(仕立てのプロなんです)です。色々お話しをさせて頂き喜んで頂いたようです。
それではお会いした皆さん、またの日まで御機嫌よう。
益々、お元気で。
2012年05月19日
ウマいもんなどの話し。
宮崎ブティック最終日。順調に進んでいます。いいぞいいぞ。
少し時間が空くようなので、今のうちに記事を書いとこう。内容はウマいもん。
一気に画像のみでいってみますよ。。
このコーヒーは帯広空港の空港レストランで「コーヒー満タン」と頼んだら出てきたもの。思わず笑っちゃったんで採用。
今年もそろそろ折り返しが近づいて来ています。毎回お邪魔する土地の幸を頂きながら頑張ってます。
ありがたや、ありがたや。
2012年05月18日
鮫皮のバックなどの話し。
今回お邪魔している催事に参加しているバック・靴メーカーさんの商材の紹介。
鮫皮を使っているバックと靴があるのですが、喪の時に唯一使う事が許される皮としてラインナップしているそうです。牛革などの動物の革は「殺生」を連想させるので本来は悼み嫌われるそうです。そのようなある種の古き良き「暗黙のルール」は現代となっては段々忘れ去られるものです。伝えられなくなってくるもんなんですね。
その鮫皮は震災で壊滅的な被害を受けた気仙沼産の物が最高級品として使われているそうです。そのバックがこれ。バックに仕上げるのも日本国内で純国産品です。
他の革製品と違い、海の生き物の革(皮)なので水に強いのが特徴。なめしもされているので柔らかで仕上がりも美しいバックです。
靴もあります。喪のときのフォーマルに使います。
鮫と日本人の付き合いは古事記などにも「鰐」として登場します。今年、古事記編纂1200年ですので、文献としても1200年ということになります。実際には3000年以上前の縄文時代の遺跡からも出土しているので、当時からこの「皮」も利用していたでしょう。
そう考えると、鮫皮との距離がグンと近くなるのです。
2012年05月18日
宮崎市ブティック催事進行中。
昨日から始まっています。美音祭り。
宮崎市内での仕事は初めてなので、どんな按配か探りながらの3日間になります。基本、皆さん大変陽気な気質でニコニコ顔が多いのです。
ここ宮崎県は鳥インフルエンザ、牛の口蹄疫病など県の基幹産業である畜産業に大打撃と風評被害を受けた自治体でもあります。その時の話しを聞くと皆さん言葉を選びながら話してくれます。一般県民にも風評被害が及んでいたと聞くとご苦労をされたんだな、と思うのです。
ある方は、車で県外に買い物に行ったら駐車を断られたそうで、皆さんが多かれ少なかれ「宮崎」という言葉を使わなかったそうです。市内に出る人もほとんどいなかったそうで各小売店さんは苦戦されたそうです。
さて、そんな見事に復活した宮崎県での仕事です。目一杯頑張っとります。
今回お邪魔しているブティックさんです。宮崎県メインストリート橘通りで頑張っています。
私のスペースはこんな感じの空間です。
今回の連合軍メンバーです。右は靴カバンのメーカーさん。職人でもある彼はこれから活躍間違いなし。彼の持ってきた商品で素晴らしいものがあるので次号で紹介しましょう。左はいつもお世話になっているMさん。ビール一杯でグデグデになる省エネマシーンです。。。
今日も宮崎は南国にふさわしい暖かさです。では。
2012年05月17日
政府専用機に遭遇。
昨日ブログを休んでしまいました。いかんいかん。
さて、昨日は羽田空港でラッキーなことに遭遇。いつも通り搭乗口に向かうと薄暗いのです。「節電かなぁ?」なんて思ったのですが目隠し用のスクリーンが下ろしてありました。「ん?」と思い反対側を見るとスクリーンがされていません。
「こりゃあ、何かあるな」と思った瞬間、スクリーンの上の隙間から日の丸の尾翼が見えたのです。
エアホース・ワン「政府専用機」が動き出している瞬間でした。
飛行機に乗り込むボーディングブリッジから専用機を見送る要人がずらり、英国国旗とともに日の丸がなびいていました。なんだか気が引けましたが撮影。
こりゃスゴイ場面だと写真を撮らせてもらいました。動き出した1番機の後ろからもう1機現れました。バックアップ機でその後飛んでいった2番機です。
今日のニュースを見て搭乗している要人が「天皇皇后両陛下」だったと知り驚いた。私が搭乗機に乗り込んで着席した時に両陛下の乗った専用機が離陸をしていかれたのですが、皇室の方々が見たところ全員正装でお見送りをしておられました。今思うと、とても感動的な場面だったのです。
せっかくなので、2番機と私の搭乗機をツーショットで記念撮影しときました。
いやあ、よかったよかった。
2012年05月15日
幸福駅に行ってきました。
帯広空港から東京に向かうまで少し時間があったので、幸福駅を見てきました。旧国鉄広尾線の駅で1987年2月2日に廃線。1973年3月NHKの「新日本紀行」で取上げられて知名度が上がり、大人気になった「幸福駅行き切符」は当時の広尾線各駅がこぞって印刷していたそうで・・・その中で一番人気が「愛国駅発幸福駅行き切符」だ。一部の旅行愛好家だけに知られていた切符だったそうで、番組に取上げられる前年1972年はこの区間の記念切符は6枚だけの販売数だったそうですが、放映後は300万枚!4年間で1000万枚!!の販売実績になったそうです。
でも、乗降客は増えず、1987年の全面廃線となったそうです。
一大ブームの震源地ですから。ましてや、帯広空港から近いとあれば・・・いざ、と言う事で行って参りました。
幸福駅の旧駅舎。なにやらペタペタ貼られているのが見える。
願い事が書かれた紙が天井や壁、はたまたベンチなどなどにご覧の通り。すごい・・・。よーくみると名刺なんかも多かったりしています。記念に置いていったのかな?
仕事もしてきました。幸福駅前にある売店のお母さんです。実は幸福駅の関連する、とあるモノを企画に使っているものがあります。今回、お母さんと話して、従来のモノよりパワーアップしたものになります。現在の在庫と切り替えの時期がそろそろ来ますので楽しみにしていて下さいね。
訪れた時に観光バスが2台止まっていました。若い人達だったので修学旅行と思ったのですが、それは間違っていなかったのですが、台湾の学生さんでした。やっぱり、お国違えども「縁起」いいんだろうな。。。
そんな幸福駅に行ってきたお話しでした。
よかったよかった。
明日は、再び九州は宮崎に飛びます。北から南までよくもまぁ動くもんだ。
2012年05月14日
ばんえい十勝
帯広に到着した当日、「ばんえい競馬」を見に行ってきました。テレビでよく見る競馬とは違い、鉄の重りを載せたソリを2箇所の砂山障害を越える直線200mの競馬です。
この「ばんえい競馬」は北海道遺産にも登録されている競技です。テレビの特集などで知っていたので一度は見てみたいと思っていましたが、帯広到着の当日は今年初めてのナイター開催日でした。この機会を逃さまいと。。。寒い夜でしたが見に行ってきました。
競馬場に到着すると丁度、11レース出走前でスタート位置に各道産子がスタンバイ中。
ファンファーレが鳴るとガッシャン!とゲートが開きガシャガシャと音を響かせて目の前を走り抜けていきます。1tの体重を使いドドドドドと走る姿は迫力満点じゃ!ピンボケだけど。
最後の難所は「頑張れ頑張れ!」と観戦しているお客さんが大合唱。なんだか感動して写真撮るのを忘れてしまいました。。ゴールはソリが全て通過したら認められるのでムチを打たれながら最後の最後まで走りきります。
ゴール後、馬達はピタリと止まり次に指示を待っています。体全体で息をしています。お疲れさん。
そしてレースごとに表彰式があるようで、先ほどのレースで一番だったジョッキーと馬がスポットライトを浴びていました。なんだか誇らしげな馬の顔が印象的でした。
と言う事で、初めての「ばんえい競馬」を2レースだけ観戦させてもらいました。
ありがたや。ありがたや。
2012年05月13日
帯広初日終了
携帯から失礼します。本日終了。
忙しい、本当に忙しい1日でした。
また明日があります。頑張ります。
Posted by Blue eye's at
23:00
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2012年05月12日
帯広到着。
今日は鉄道移動記事。。
本日のルートは札幌駅出発、千歳線から一瞬、根室本線に重複して、石勝線で日高山脈をくぐり抜けて十勝平野の帯広に到着。時間にして2時間30分ほどの鉄路の旅。単線の鉄道に多いディーゼル特急。特に北海道は冬の雪の重みでの電線切断などのリスクが高いのでディーゼル機関は必要不可欠な動力です。
「ドリュリュリュリュ・・・」と加速すると体に感じる力強さがタマリマセン。。
石勝線に入ると社内アナウンスで「この先、エゾジカなどの動物が線路内に侵入する区域に入るので急停車等の回避運転をすることもありますので、お立ちの方は充分お気をつけ下さい」と。
「おおお、おおおお、やっぱり北海道や!」と思いながらカメラを構えながら車窓を見ていたらいつの間にかに寝ていて、もう帯広駅に到着前だった。でも、途中で何度か目が覚めて見た風景はどこまでも緑と土の広がるスケールの違う広さでした。
札幌駅出発までの画像は多く残っています。
まずは、電光掲示板。「スーパーとかち」が掲示されてます。いいねぇ。
車内の写真。いいねぇ。
おっと、忘れていました。「特急スーパーとかち」の横顔と乗降口。いいねぇ。
そして、広大な風景の中を走り帯広駅に到着です。
さあ、明日から2日間。この十勝帯広で頑張ってみます。今日の北海道は冷えました、今も一桁の気温です。明日の最低気温は4℃・・・体調だけでも気を付けなくてはいけません。
ではでは。